足尾銅山と山地荒廃の歴史(その1)

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1. 足尾銅山の発見

 足尾銅山の歴史は今から400年ほど前の江戸時代初期までさかのぼります。
江戸時代の足尾は、下野国足尾郷と呼ばれ、14か村からなる日光神領でした。

 慶長15年(1610)、備前国出身で足尾郷の農民となった治部(じぶ)と内蔵(くら)の
二人が鉱脈を発見し、領主の許可を得て試掘、翌年には幕府に銅を献上したと
されています。

 もっとも、それ以前より佐野家によって経営されていたという記録もあり、
銅山の発見がいつだったのかははっきりしていません。

2. 幕府直轄銅山へ

 幕府は慶長16年(1611)、銅山を鉱山奉行の直轄に移し(直轄銅山)、 本格的に足尾銅山の開発がはじまりました。  このころは間吹法と呼ばれる原始的な方法で銅の精練が行われ、 その銅を幕府が買い上げて諸廟の築造や江戸城の増築などに用いたそうです。  銅の産出量は延宝年間には年250万斤にのぼり、足尾山地に1千軒を越える 銅山町が形成され、足尾銅山は徳川幕府時代の最盛期を迎えました。  しかし、貞享年間をピークに足尾銅山は衰退に向かい、文政4年(1821)年には 廃山同様になってしまいました。

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