足尾銅山と山地荒廃の歴史(その2)

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3. 民営銅山へ

 明治維新を迎え、足尾銅山は他の幕府直轄の諸鉱山と共に明治政府に 引き継がれましたが、明治4年(1871)11月には民間の手に移りました。  そして同10年(1,877)古河市兵衛氏が経営することになりました。  古河家の経営に移った当初は鉱況が振わず、通気排水の設備も悪く 経営は困難でした。

4. 足尾銅山の最盛期

 明治17年(1884)、本口坑に於いて鉱脈が発見され、産銅量は急激に増加しました。 さらに、明治中期以降には本山・小滝・通洞の三坑を中心として開発に努力した結果、 無数の鉱脈が相次いで発見されました。  明治26年(1893)、ベッセマー製錬法という電気製錬法が取り入れられて 製錬の効率が大幅に改善された上、製錬工場の新設、水力発電施設の建設などで 銅の生産量は飛躍的に増大しました。  明治20年代には国内の全産銅額の40%を占めるまでになっていました。  その後も優良鉱脈が発見され、大正5年(1911)には町の人口も38,400人になり 足尾銅山は最盛期を迎えます。


最盛期のころの足尾製錬所(明治中期から大正時代?)
林野庁前橋営林局提供写真より。

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