足尾銅山と山地荒廃の歴史(その5)

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 土は川底に堆積します。川底が上がるので、ちょっとした雨でも川が氾濫し、
下流では数多くの人々が洪水の被害に苦しみました。

 特に明治23年(1890)年にあった洪水で、製錬所周囲の鉱毒に汚染された土が
大量に流出し、下流の桐生から栗橋までの水田約7千町歩に著しい鉱毒の被害を
与えました。

 それ以来、下流の農民のからの鉱毒除去の請願が相次ぎ、ついには田中正造代議士が
議会にこの問題を提出し、鉱毒問題は大きな政治問題へと発展していったのです
(足尾鉱毒事件)。

 これに対して製錬所側は明治30年に脱硫塔を建設し、以後煙気、稀釈法、
電気集塵機取り付け等の対策によって煤煙中のひ素やその他の有害物の除去に
大体成功しましたが、硫黄燃焼により発生する亜硫酸ガスだけは処理することが
できませんでした。

 製錬所の周囲から上流にかけて、農作物の枯れなどの被害が一層著しくなり
上流にあった松木部落の人々はとうとう村を捨てざるを得なくなりました。
現在でも現地に行くと、集落の跡を見ることができます。

 国は森林を回復させるため、明治30年から3年間にわたって「足尾官林復旧事業」
として、植林、防火線設置、砂防工事を行なったのをはじめとして、大正初期
までこれらの事業が続きました。

 しかし、亜硫酸ガスの排出という根本的な問題が解決していなかったために
十分な効果をあげることができませんでした。

1956(昭和31)年当時の足尾地区の煙害区域図

足尾治山事業所概要(林野庁)より。

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